2010/01/08

小学校2年生の作文に泣かせられたよ。




Something Orange
より、そのまんま抜粋。
【小学校2年生の作文に泣かせられたよ。】
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080105/p2

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すばらしい文章に出あった。
 
第47回全国小・中学校作文コンクールの優秀賞受賞作品
作者は小学校2年生の女の子、中村咲紀ちゃん。

といっても、子供の無邪気な心に感動したとか、そういうことではない。

無邪気どころか!
大人でもこうは書けるものではない深みのある内容と、
明晰な文章で綴られた
みごとな読書感想文である。

題材は『セロひきのゴーシュ』。

ゴーシュと動物たちの物語が、彼女自身の体験と供に語られていく。


正直に言う。
読んでいる最中、何度となく目がうるんだ。

二、三滴、涙がこぼれ落ちたかもしれない。

この文章と比べたら
僕がふだん書いているものなんて
皆まとめて屑かご行きだ。

それくらい傑出した表現力である。

咲紀ちゃんは
先ず物語の主人公である
ゴーシュの肖像を的確に描き出していく。


この文章が良い。



 だれも気がついていないけれど

 ゴーシュの心の中には、へんなものがたくさん入っています。

 変なものというのは、その人によって違うけど

 自己満足だったり

 強がりだったり

 我慢のし過ぎだったり

 色んなものがあります。


 そういうへんなものが心の中に入っていると

 本当のじぶんがちゃあんと見えません。

 ゴーシュは一生懸命練習しているつもりだけれど

 本当の自分がちゃあんと見えていないので

 本当の練習ができていないのです。


 本当の自分をちゃあんと見ないでどんなに頑張っても

 間違った頑張り方しかできません。

 それは、本当の頑張りにつながりません。

 けれども、奇跡がおこります。




その奇跡とは
動物たちがゴーシュのもとを訪れることだった。

いつもゴーシュの家の軒下で
彼の演奏を聴いていた動物たちは
その演奏のすばらしさを知っていた。

しかし、猫はゴーシュに追い出されて逃げ出し
カッコウはガラスにぶつかって重傷を負う。
ゴーシュは自分がやってしまったことを悔やむが、どうしても素直になれない。
その心理を、咲紀ちゃんはこう分析する。


 ゴーシュはあとになって

 この時のことを「おれはおこったんじゃなかったんだ」と言っています。

 私もそうだと思います。
 


 ゴーシュは、本当は、本当の自分を知っていたんじゃないかと思います。

 でも、本当の自分はとてもひどいので

 見ないようにしていたんだと思います。

 それなのに、かっこうにだめな自分を見せられて

 そのだめなじぶんにカッとなって

 そのむしゃくしゃをかっこうにぶつけてしまったんだと思います。




やがて、ゴーシュのもとを野ねずみの親子が訪れる。
野ねずみたちはふだんゴーシュのセロを聴いて病気をいやしていた。
彼らはゴーシュにセロをひいてくれと頼む。
 


 ゴーシュはひとりぼっちじゃなかったのです。
 
 下手でだめだと思っていたセロは、
 
 動物達の病気が治るので感謝されていたのです。
 
 ゴーシュの心があたたまります。
 
 それでゴーシュは、
 
 野ねずみに優しくできるようになったんだと私は思いました。

 
 病気が治ってパンまで貰った野ねずみは、
 
 鳴いたり、笑ったり、おじぎをしたりして帰っていきます。
 
 野ねずみは、
 
 ゴーシュの心をあたためにやってきたけれど、
 
 ゴーシュのやさしさで、野ねずみの心もあたたまったんだと思います。
 
 
 これが、心と心をくっつけ合うということです。
 
 
 みんなひとりぼっちじゃないのはいいなあ。
 
 助け合うのはいいなあ。
 
 ゴーシュが、やさしいゴーシュにもどれてよかったなあ。
 
 と、わたしは思いました。
 




そして、ゴーシュはコンサートで大成功し、物語は終わる。

めでたしめでたし。

しかし、彼女の作文はそこでは終わらない。
今度は、彼女自身の物語を書いていくのである。
ちょっと子供が書いたとは信じられないような、印象的なエピソードがいくつも続く。


妹が生まれて、母親に抱っこしてもらわなくなった話。
母親が「抱っこしてあげようか」と誘いかけても、彼女は「いい」と断る。



 「まきがおかあさんにだっこしてほしいと思った時
  
  いつでもだっこしてもらえるように
  
  わたしはもうだっこしてもらわなくていいの

  まきがだっこしてほしいと思った時

  私がだっこされていたら、まきがだっこしてもらえないでしょう」
 




幼稚園で友達と仲良く出来なかった話。
それに、マクドナルドのハンバーガーが食べたかったのに
食べたいと言えなかった話。



 私は、もう一つ言えなかったことがあります。
 
 私は
  
 マクドナルドのハンバーガーが食べたかったのです。
 
 幼稚園でみんなが
 
 「マクドナルドで何食べたあ』なんて話しているのを聞いたり、
 
 隣の家のマーくんが、
 
 マクドナルドのおまけのおもちゃを、たくさんもっているのを見たのです。
 
 私は
 
 年中の頃から、ずっとマクドナルドが食べたかったけど
 
 おねだりできませんでした。
 
 マクドナルドは高いだろうと思いました。
 
 おとうさんは、マクドナルドは食べない人だろうと思いました。




様ざまな、それ自体は些細なエピソードから
一人の女の子の姿が浮かび上がってくる。


おとなしい、遠慮がちな、しかしやさしく、思慮深く
大人が思ってもいないようなことを考えている少女。
ひとりぼっちの少女。
 


「わたしは、家に帰って来ても、うーんと頑張っていて
 おとうさんにもおかあさんにも甘えることができなかったのだと思います」と、
彼女は書く。
 




 今考えると、わたしの「がんばるぞ」は
 本当の「がんばるぞ」ではなかったと思います。
 
 「つらいのがんばってがまんするぞ」の「がんばるぞ」だったのです。
 
 私は、変なものがいっぱいで
 
 自分自身も
 
 まわりの人も
 
 何もかもちゃあんと見ることができなかったと思います。
 
 私は、誰にも甘えないで

 心をきつくして
 
 ぼろぼろないていただけだったのかもしれません。
 
 だから、いくらがんばっても、
 
 つらいことばかりだったのだと思います。
 
 私の頑張りは、
 
 我慢するだけで、
 
 本当の頑張りにつながらなかったのです。
 
 わたしはゴーシュだったと思います。




ゴーシュには奇跡が起こった。
そして
幼いもう一人のゴーシュにも奇跡は起こる。





 「でも、幼稚園の卒園式の後の私の気持ちは、
  まるできせきがおこったみたいでした」。

 

辛かった幼稚園を卒園して
もうこの制服を着なくていいのだと悟った彼女は
母親と、そして父親に抱っこしてもらう。


そのとき、彼女のなかで何かが変わる。
 


 それからすぐあとの日曜日

 こんどはだっこの時より頑張って
 
 私は、お父さんに言いました。
 
 
 「マクドナルドのハンバーガーが食べたいので買って下さい」

 「いいよ」
 
 
 お父さんはあっさり言いました。
 
 私はびっくりしました。
 
 
 そんなに簡単に「いいよ」なんて言われると
 
 私はびっくりするタイプ です。
 




「いじらしい」とはきっと
こういう子のことをいうのだろう。

僕は、こういう子供の話に弱い。

めろめろである。
 
最後に彼女は、
大人になってもひとに甘えてもいいのだということに気づく。

誰にも甘えずにいると
心に、「へんなもの」が溜まっていってしまう。

だから、甘えてもいい。





 「お母さんはね、さきがいつ甘えてきてもいいように、
  いつでもさきが甘えてくる所をあけて待っているの。見えなかった?」

 と、おかあさんは言いました。
 

 私は見えなかったのです。
 
 でも、今は見えます。
 




そう、今は見える。
しかし、大人になってもまだ、この真理がわからないひとは大勢いる。

人は、人に頼ってもいいし、甘えてもいい。

泣いても、わめいてもかまわない。
不完全でも、不十分でも、他人に迷惑をかけてもいい。
そのままで生きていっていい。
ただひたすらに耐えてばかりいると
心が歪み、たわみ、ねじ曲がっていってしまうから。


じつのところ、ぼくも明らかにそういうタイプ
咲紀ちゃんの言葉は身に染みる。完璧な作文だ。





 人は、みんな、心をくっつけ合って、生きていくのです。

 でも、くっつけすぎには気をつけて
 
 みんな元気な時ははなれて
 
 じぶんのことをちゃあんとするのがいいと思います。
 
 
 わたしは、がんばって大きくなります。